『Le Prénom』― ひとつの名前が、ひとつの家族を爆破した夜

ある晩、パリの上品なアパルトマン。家族と古い友人が集まって、いつもの夕食が始まろうとしています。ワインが開けられ、皿が並び、誰もが何気ない会話を交わしている。

そこに、これから父親になる男――ヴァンサンが、にやりと笑って言います。「ところで、生まれてくる子の名前、決めたんだ」と。家族が興味津々で身を乗り出す。彼はゆっくりと、ひとつの名前を口にします。

その瞬間、テーブルの上の空気が凍りつき、その夜のディナーは、おそらく 10年分の家族の秘密と憎しみと愛情を吐き出すこと になります。

これが、2012年の映画『Le Prénom(ル・プレノン、邦題:おとなの事情)』の最初の数分間。舞台版から映画版に展開し、フランスで爆発的に愛されつづけている、ひとつの「夕食喜劇」の始まりです。

食卓という、フランスの本当の舞台

この映画には、銃も、車の追跡も、外の風景もほとんどありません。ほぼすべてのシーンが、一つのアパルトマンの一つの食卓のうえ で展開します。

それでも観客は、二時間近いあいだ、画面から目を離せません。なぜなら、フランス的なドラマの本質は、外で起きること ではなく、食卓のまわりで交わされる言葉 のなかにあるからです。先日の『Le Dîner de cons(奇人たちの晩餐会)』の記事でも触れましたが、フランス文化において食卓は、戦場であり、舞台であり、告白室でもあります。一皿の料理を間に挟みながら、人間は本音を口にし、嘘をつき、関係を結び、関係を壊す。

『Le Prénom』はこの長い伝統を、現代のパリのブルジョワ家庭で、極上のかたちで再現してみせた作品なのです。

“prénom” という言葉が、すでに語っていること

タイトルになっている prénom という言葉そのものを、まず少しだけ。

フランス語では、名前は二つの部分に分かれています。le nom(ノン)――苗字、家族から受け継ぐ名。le prénom(プレノン)――ファーストネーム、親が選ぶ名。

接頭辞 pré- は「先に、前に」の意。つまり prénom とは、文字通り「nom(苗字)の前に置かれる名前」という意味です。日本語では「姓」と「名」の順序が逆ですが、フランス語の構造そのものに、「家族の名は与えられるもの、個人の名は選ばれるもの」 という思想が刻まれています。

そして、フランスではこの 「選ばれるもの」としての名前 が、想像以上に重い意味を背負っています。日本でも、「明治・大正風」「昭和風」「キラキラネーム」と、名前が世代を映すことは知られていますが、フランスではそこに、強烈な階級の感覚 が重なるのです。

たとえば Jean、Pierre、Marie、Claire ――これらは古典的で、ブルジョワ的で、教養を感じさせる名前です。Kévin、Brandon、Jessica は、1990年代に英米文化への憧れから流行した名前で、フランスのインテリ層は今でもこれらを少し低く見る傾向があります。社会学ではこの現象に名前まで付いています――「l’effet Kévin(ケヴィン効果)」と。Adèle、Léa、Louise、Gabriel といった名前は、現代のパリのおしゃれな両親に好まれる「bobo(ボボ、bourgeois-bohème の略称)」風の名前。

名前を聞いただけで、フランス人はおおよその年齢、おおよその社会階層、そして親がどんな価値観を持っていたかを 無意識に推測してしまう。これは日本人にとっては少し驚くべき感覚かもしれませんが、フランス社会のリアルです。だからこそ、『Le Prénom』のあの夜、ヴァンサンが口にしたひとつの名前が、テーブルを凍りつかせるのです。

アドルフという言葉が消えた日

ヴァンサンが宣言したファーストネームは ―― Adolphe(アドルフ)。

ここで観客のなかの何人かは、思わず顔をしかめます。アドルフ・ヒトラー という、20世紀でもっとも忌まわしい人物の名前と同じだからです。

ところが、ことはそれほど単純ではありません。

実は Adolphe は、フランスでは19世紀から普通に使われてきた、由緒ある名前でした。文学では、ベンジャマン・コンスタンの名作小説『Adolphe』(1816年)に使われ、繊細で内省的な男性の代名詞ですらありました。ヒトラー以前、Adolphe は単に 古風で、少し詩的な、まったく無害な名前 だったのです。

それが、第二次世界大戦のあと、フランスでも他のヨーロッパ諸国でも、完全に消えた名前 になりました。両親はもうこの名前を選ばない。歴史の重みが、たった3音節の言葉を 「使えない名前」 にしてしまったのです。

『Le Prénom』が問いかけているのは、まさにこの一点です。「言葉そのものは罪を持たない。けれど、歴史が言葉に罪を負わせることがある」――そして、その重みを乗り越えてその名前を再び選ぶ自由は、はたして存在するのか。

ひとつの単純な発表が、家族の善意のリベラリズム、教養人としてのプライド、無意識の偏見、そして長年積もってきた嫉妬と不満を、一気に剝き出しにしていきます。

ブルジョワ・ボボたちが、自分自身を笑う

『Le Prénom』が傑作であるもうひとつの理由は、この映画が フランスの教養あるリベラル中産階級 ――いわゆる “bobo” ――の自画像でもあるからです。

登場人物たちは皆、いい大学を出ていて、本を読み、人権について語り、自分は寛容で開かれていると信じています。けれども、ひとつの名前が投げ込まれた瞬間、彼らの寛容さの薄っぺらさ、上品な言葉の裏側にある古い偏見、家族のあいだに積もった本音が、ぜんぶ表に出てくる。

これは、フランスの観客にとっては、まさに 自分自身を笑う映画 でした。『Le Dîner de cons』の記事でも触れたとおり、フランス文化において、自分の階級を自分で笑える能力 は、教養のもっとも洗練されたしるしのひとつ。『Le Prénom』はその長い伝統に、見事に連なる作品なのです。

そして、この映画から拾える「生きたフランス語」が、実に豊富です。家族のあいだで誰かを呆れさせるときの “C’est quoi ce prénom ?”(なんだその名前は!?)。皮肉と祈りが同居する “Tu plaisantes, j’espère ?”(冗談だよね、お願いだから)。たしなめるときの定番 “Mais enfin, c’est inacceptable !”(いやいや、ちょっと待って、それはありえない)。これらはすべて、教科書には載らない、けれど フランス人が日常で感情を伝えるときに駆使している言葉たち です。

名前とともに、私たちが受け取っているもの

『Le Prénom』を観終わったあと、心に残るのは、ひとつの静かな真実です。

名前とは、私たちが自分で選ぶものではなく、与えられるもの。 親が、おそらく何時間も、何日も、何週間も考え抜いて与えたもの。そこには、両親の願いがあり、彼らの時代の感覚があり、彼らの夢や恐れや偏見すらが、ほんの少しずつ折り込まれている。

私たちはみな、自分の名前を持って一生を生きていきます。けれども、その名前がどれほど多くの物語を背負っているか、ふだん私たちは、ほとんど意識することがありません。

『Le Prénom』は、そのことを、ひとつの夕食の混乱を通して、優雅に、そして痛烈に思い出させてくれる映画なのです。

そして次にあなたが、誰かのフルネームを聞いたとき――その人の prénom の選び方のなかに、その親と、その時代と、その家族の小さな歴史が眠っていることを、少しだけ思い出してみてください。


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