『Intouchables』― 友情というものに、フランス人がひそかに抱いている理想

正直に言うと、『Intouchables(邦題:最強のふたり)』を初めて観たとき、私は少しだけ疑っていました。

2011年に公開されたこの映画は、フランスで歴代二位の動員数を記録するという、ほとんど社会現象に近い成功を収めました。そして世界中の映画館で泣いた人々が出て、リメイクが何本も作られ、観た人の誰もが「いい映画だ」と言う。

そういう作品は、たいていの場合、私のなかで少しだけ警戒心が芽生えるものです。みんなが好きなものには、何か嘘がある ――そう思ってしまう癖が、たぶん私にはあるのです。

でも、『Intouchables』を観終わったとき、その警戒心は完全に解けていました。この映画は、単なる感動作ではありません。フランス社会のいちばん深いところに眠っている、ある種の理想 を、優しく、しかし容赦なく描き出した作品なのです。

二人の男のあいだに、ありえない友情が生まれる

物語の中心にいるのは、二人の男です。

ひとりは フィリップ。パリの裕福な貴族で、住んでいるのはセーヌ川沿いの豪邸。教養に満ち、クラシック音楽を愛し、絵画を蒐集し、上品なフランス語を話します。そして、彼はパラグライダー事故で首から下が動かなくなり、車椅子で生活している。

もうひとりは ドリス。パリ郊外のセネガル系移民の家庭で育ち、職もなく、刑務所から出てきたばかり。フィリップの世界とは、ほとんど別の惑星に住んでいるような男です。

ある日、フィリップは住み込みの介護人を募集します。応募者は皆、上品で、資格があり、適切な動機を述べる。ところがドリスは、面接にやって来て、ただ 「失業保険の書類にサインがほしいだけ」 と言う。雇われたくないのです。

そして、フィリップはドリスを選ぶ。なぜなら、彼だけが、フィリップを「障害者」としてではなく、ひとりの男 として扱ったから。

“pitié” を持たない、ということの優しさ

この映画の心臓部にあるのは、ひとつのフランス語の単語だと私は思っています。

pitié(ピティエ)。

辞書を引くと「同情、憐れみ」と訳されますが、フランス語のニュアンスはもう少し複雑です。pitié は、上から下に向けられる感情。「私はあなたよりも恵まれているから、あなたに同情する」 という、無意識の優越を含んだ感情です。

だからフランスでは、誰かに pitié を向けることは、必ずしも優しさにならない。“Je ne veux pas de ta pitié.”(あなたの憐れみなんかいらない)――これは、フランスの映画や小説のなかで、誇りある人物が何度も口にする台詞です。

フィリップが介護人たちに耐えられなかったのは、まさにこの pitié でした。みんな彼を「気の毒な障害者」として丁寧に扱う。それは表面的には親切に見えて、実は彼から 「ひとりの男としての尊厳」 を奪っていく行為だったのです。

ドリスだけが、それをしなかった。彼はフィリップに対して、躊躇なく冗談を言い、容赦なく彼の好みを馬鹿にし、車椅子のままドラッグをやらせ、夜中に外に連れ出します。それは無神経ではなく、むしろ 「あなたは哀れな存在ではない」 という、もっとも深いところでの肯定だったのです。

これが、フランス文化における友情の、ひとつの理想のかたちです。相手を気の毒に思わないこと。憐れまないこと。対等な人間として、ぶつかり合えること

“égalité” という、看板の言葉と、本当の意味

ここで、もうひとつのフランス語に触れざるを得ません。

égalité(エガリテ、平等)。

フランス共和国の標語、Liberté, Égalité, Fraternité(自由、平等、博愛)の真ん中にある、あの言葉です。学校で教えられ、市役所の壁に刻まれ、国家のあらゆる公式文書に登場する、フランスのもっとも公式な理想。

けれども、現実のフランス社会では、この égalité はしばしば空文に近いものです。裕福な16区のパリ人と、郊外の団地に住む移民二世のあいだには、想像を絶する距離がある。教育、職、住居、結婚、そして死に方まで、すべてが分かれている。

『Intouchables』が描いているのは、その距離が 一瞬だけ、二人の人間のあいだで埋まる奇跡 です。

フィリップとドリスは、社会階層からすれば、決して交わることのない二人でした。出会わなかったはずの二人が、ひとつのアパルトマンのなかで、ひとつの友情を作り上げていく。それは政治的な解決ではないし、社会問題が消えるわけでもない。けれども、個人の関係のなかでだけは、égalité は本当に可能なのだ ――この映画はそう信じさせてくれます。

そして、これが多くのフランス人が泣いた本当の理由だと、私は思っています。彼らは、自分たちの社会の限界を知っている。だからこそ、その限界をひととき超えてみせる二人の友情に、ほとんど信仰のような気持ちで感動するのです。

“tu” と “vous” の使い方が、関係を物語る

『Le Grand Blond』の記事でも触れた、フランス語の tu / vous の使い分けが、この映画でも大きな役割を果たしています。

最初、ドリスはフィリップに対して vous を使います。雇われている立場、明らかに身分の違う相手、当然の距離。けれども、関係が深まるにつれて、ドリスはいつのまにか tu に切り替えていきます。

そして、フィリップはそれを訂正しません。普通のフランス人の貴族なら、明らかに格下の若い従業員にいきなり tu で呼ばれたら、訂正するか、不快を表すか、距離を取るはずです。けれども、フィリップはドリスの tu を受け入れる。それどころか、自分も tu で返すようになる。

このたった一文字の変化が、彼らの関係のすべてを語っています。「私たちは対等だ」「あなたを上から見ない」「私を上から見なくていい」 ――この言外のメッセージが、tu という一語のなかに込められているのです。

フランス語を学んでいる方には、ぜひこの tu への切り替えの瞬間 を映画のなかで探してみてほしいと思います。それは、フランス語が単なる伝達の道具ではなく、関係を彫刻する道具 であることを、もっとも美しく見せてくれる瞬間のひとつです。

笑いという、もうひとつの平等

『Intouchables』のもうひとつの素晴らしさは、これが 本当に面白い映画 であることです。

社会派の映画は、ともすれば深刻になりすぎて、観る側が疲れてしまうことがあります。けれどもこの映画は、ほとんど絶え間なく笑わせてくれる。ドリスがクラシック音楽を聞いて素朴な感想を述べる場面、現代美術の絵を見て「これ、いくらするんだ?」と聞く場面、フィリップの恋文を盗み見て口を出す場面――どれも、心からの笑いを誘います。

そして、この笑いそのものが、ひとつの égalité の実践 なのです。

二人の男は、互いを笑わせ合います。フィリップはドリスのファッションセンスを笑い、ドリスはフィリップの上品さを笑う。そして、二人とも、自分自身を笑う。一緒に笑えるということは、相手の前で自分を解除できているということ であり、それは pitié が完全に消えた関係の、もっとも純粋なしるしです。

フランス文化において、「一緒に笑える」というのは、友情のいちばん重要な条件 のひとつだと言われます。一緒に泣ける友人より、一緒に笑える友人のほうが、ときに大切なのです。

実話だった、ということ

最後に、ひとつだけ付け加えておきたいことがあります。

『Intouchables』の物語は、実話 です。

フィリップのモデルになったのは、フィリップ・ポゾ・ディ・ボルゴという実在の貴族で、ドリスのモデルになったのは、アブデル・セルー・ヤスミンという、アルジェリア系の青年です。二人の実際の友情は、映画のすべての場面の根っこにあります。

これが私には、とても大事なことに思えます。なぜなら、もしこの映画が完全な創作だったら、「ただの美しい寓話」として片付けることができたかもしれない。けれども、これは本当に起きたことなのです。社会階層を超えた友情は、本当に可能だった

つまり『Intouchables』は、フランス社会に向かって、こう問いかけている映画でもあります。

「これが現実に可能だったのなら、なぜ私たちの社会全体では、これが起きないのか?」

その問いに、誰もまだ答えを持っていません。でも、たぶん、答えを持っていないことが、この映画が今も愛されている理由のひとつなのです。

そして観終わったあと、私たちは思うのです。自分の人生のなかでも、こんな友情がひとつ生まれるなら、人生はそれだけで十分に意味があるのではないか ――と。

それを信じさせてくれること。それこそが、いい映画にしかできない仕事なのだと、私は思っています。

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